音速の貴公子に捧ぐ







音速の貴公子と呼ばれ
世界の誰からも慕われた紳士が
この世を去ってから今日で10年が経つ

写真を志した当初から彼の存在が僕を支えてくれた
彼に逢いたい一心でこの仕事に集中することができた
多くの方のサポートのおかげで
僕は無事、彼と対面することができた

'91年、鈴鹿サーキット
憧れのF-1パイロットに初めて逢う幸運を噛みしめながら
無我夢中でカメラを構える若造に彼はやさしく接してくれた
もちろん僕だけではなく
彼の周りに集う誰にも彼は一流の気遣いを見せていた

アイルトン・セナ・ダ・シルバ
真のプロフェッショナルだ



僕の'91年は訳の分からないウチに終わってしまったが
全てが夢の中のようで、全てが心地よかった

翌'92年は
僕の人生で最初の海外渡航となる
南アフリカGPでの開幕戦取材の幸運に恵まれた
「ビザ」ってナニ?「カルネ」って???
パスポートの取り方くらいは知っていたが
その他は全部「×」

またまた訳分からん状態だった

それでも新人カメラマンが海外取材に抜てきされるなど
異例も異例。
僕を信頼し、ここへ連れてきてくれた業界でも名うての
M記者の顔に泥を塗る訳にはいかなかった

僕は辞書を片手にカタコトの英語で必至に
ドライバーたちの顔写真など資料写真の収集に奔走した

彼はマシンの整備などを主に行うピットの裏手にある
パドックでチーム監督のロン・デニス氏とマシンについて
何やら真剣な打ち合せをしていた
レーシングスーツの上にはジャケットを羽織っていたのだが
これでは資料写真としては不十分であった

F-1初心者の若造には恐いものはなかった
(と、言うより無我夢中で必死のぱっちでした)
どこの馬の骨とも分からない東洋のこの得体の知れないカメラマンは
あろうことか彼にこう申し出た
「あなたの写真を撮りたいのでジャケット脱いでもらえませんか?」
(もちろん英語、しかもカンペキなえいごですよ〜〜〜〜ぺらぺ〜ら〜〜)

彼はこの若造を横目でチラッと覗くと
黙って、静かにジャケットを脱いでくれた


しかも、なんとこの無謀なカメラマンは再度ツカツカと彼に歩み寄り
「ついでにそのサングラスも取ってもらえません?」
と、言って退けたのであった!
(オ〜、イッツアクレイズイ〜〜〜)

そんな無礼者にも彼はやさしく丁寧に対応してくれたのであった


宿舎に帰る道中でこのことをM記者先輩に報告すると
M記者は暫し沈黙した後、
「おまえって、おそろしく無謀やな〜〜」
と、感心?されてしまったので
自分のした行為に自分で驚愕し、あらためて彼の器の大きさに
感謝したのであった


その後もM記者の小判ザメ状態で
彼とランチを共にすることができたり、モーターホームに入れてもらったり
僕の人生を左右する程の貴重な体験をさせていただいたが
その何時の時点を切り取って思い出してみても
彼は紳士であり、ある意味「神」の様にも感じることができた
全身にオーラをまとっていたと表現すれば分かっていただけるだろうか?


'94年はパシフィックGP岡山TIサーキット英田にて既に異変は起っていた

前年のレギュレーション(車両規定のことです)変更にともない
それまでのアクティブサス(自分で考えて動くサスペンションのことです)が
急きょ廃止され従来と同じパッシブサスの全車適用が発表されたばかりであった

それまでシャシー(車体の骨格)を含めマシンのセッティングは
アクティブサスの使用を前提としていたため
各チームとも新しい専用のシャシーが届くまでは旧型のシャシーを代用し
騙し騙しレースをするしかなかったのである
この年からウィリアムズチームに移籍した彼もその洗礼をまともに喰らったのである
当然マシンの挙動は不安定を極め コースのあちらこちらで
スピンするマシンが続発していた

アイルトンといえばマシンコントロールに関しては神をも怒濤するほど
完璧であったことは誰に聞いても疑いのないところである
彼のコントロールするマシンは髪の毛一本程のギリギリの限界点で
完璧に彼の手の内にあった
どんなにマシンが暴れようとも事もなげに
”シュパーン”
と僕らの前を通り過ぎていくのである、あれを神業と言わず何と言おう


そんな彼がスピンしたのである
記憶によるとプラクティス(予選)の初日だったと思う
コントロールタワーからの遠目ではあったもののその現場を写真に納め
急いでM記者の元へ駆け寄った僕は
「Mさん! アイルトンがスピンしたでー! これ明日のニュースやで!!!」
信じられないといった表情のM記者はそれでも冷静に
「俺も今見てびっくりしたとこや!
そやけどな〜いくらアイルトンと言えども予選やろ?
俺らやったら事の重大性分かるけどな〜〜、
予選でスピンしたくらいじゃいくらなんでもニュースにはならんやろ〜」
と、たしなめられ「それもそうやね〜」と納得し他の取材を続けた
決勝は
やはりマシンのセッティングが思うようにいかず前のブラジルに続く
二連続リタイヤに終わってしまったのである

そして、10 年前の今日、運命の1994年5月1日
イタリア・サンマリノのイモーラサーキットにて悲劇は起ったのである

確か前日にもコースアウトしたマシンが大破しドライバーが亡くなっていた
そんな危険なコースに彼は出ていった
新しいチームに対する彼の責任感は並み大抵ではなかった
暴れるマシンをねじふせながらそれでもギリギリの激走を重ねる彼に
マシンは突然、応えることを止めてしまったのである
時速300Kmでのウォールへのクラッシュは
彼をどこか遠くへ連れて行くためには、残念ながら十分な威力を持っていた
彼が神の元へ召された瞬間であった

このことは世界中を震撼させ世界中の人が涙した

彼に逢いたい一心でレース写真に取り組んでいた若造は
この時を境にレース写真を一切止めてしまった
風のうわさでは彼の専属カメラマンであった日本人のカメラマンも
機材の全てをアイルトンの遺族に返還しやはりサーキットからいなくなったそうだ



実は今回の記事を書くまでの間、僕はあまりF-1のことを語ることができなかった
それはあまりにも僕の心の中に痛烈なダメージがあったからで
そのことに関してはある種 封印していたのである
しかし、ここに僕の中にある彼への思い出を語ることによって
彼に対しても、自分に対しても一つの区切りをつけようと思う
そして、これからは彼のようなすばらしい人物が
実際に僕らと同じ時間をこの地球上で過ごしていたことがあるということを誇りに
これからの人生で僕にできることを真剣に探していこうと想う

10年ひと昔、彼の偉業はもはや伝説と化し
今の若者たちはピンクレディーやキャンディーズのように
映像でしか見ることはできない記憶となってしまった
僅かでも彼と時間を供にすることができ、無謀ながらも言葉を交わすことができた
僕が現在生きている人たちにできることといえば
この記事のように彼の偉大さを語りベとして伝えていくことくらいしかない


20世紀の最後に神と語り合うことのできた人物が実際に存在したということを




2004.5.1
POP.GONZO






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